長勝寺と観音堂の歴史

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 長勝寺は今から約500年前の文亀元(1502)年に、喜峰禅悦という和尚様をご開山にお迎えして、亀王の地(現在の西公園付近)に大友統(のり)清(きよ)公によって創建されました。本尊は地蔵菩薩さまです。創建当初は建長寺派であったと伝えられています。
 観音さまがいつ頃から三川にお祀りされていたか、はっきりとは分かりません。1740年頃に書かれた観音堂の棟板によると、奈良の東大寺建立に携わった行基菩薩の作とされ、古くから村の北に安置されていました。
 こうして誕生した長勝寺は、豊後(大分)の領主だった大友氏と薩摩(鹿児島)の島津氏の戦いに巻き込まれ、天正14(1586)年、戦火に焼かれてしまいます。その10年後の慶長元(1596)年にマグニチュード7の慶長豊後地震と4メートルの津波。翌、慶長2(1597)年に大洪水に遭遇しています。また、貞享(1684~1687)年間に起きた火災によって観音堂と観音さまが焼け落ちてしまいましたが、元禄元(1688)年、当時の住職、祖堅和尚が観音さまの修復を
し、小さなお堂を建てて安置されました。
 その40年後、東漸玄猷(とうぜんげんゆう)という和尚さんが長勝寺の住職となりました。それまで建長寺派であったのを妙心寺派へと改め、寺領を亀王から現在の地に移転し、荒廃していた長勝寺を復活させます。東漸さんは観音堂の由来を知り、一念発起して観音堂の再建を呼びかけます。多くの賛同を得、提案から2年後の元文元(1736)年6月に製材を始め、翌元文2(1737)年11月3日に上棟式が行われました。決して贅沢な造りではありませんが、細部に手を抜かない綿密さを感じます。私たちが慣れ親しんできた観音堂はこの時に建てられたものです。
 時は経ち、幕末の安政元(1854)年12月23日、南海トラフを震源とする安政の大地震、今でいう東南海地震が発生します。この地震は12月23日にマグニチュード8.4の東海地震、24日に同じくマグニチュード8.4の南海地震が起こりました。寺の建物は何とか倒壊を免れましたが、26日に起こった余震で、残念ながら本堂と庫裏が倒壊しています。観音堂はかろうじて倒壊せずに残りました。
震災から7年後の文久元(1861)年、月関和尚が住職の時、本堂の廃材を使って、まず庫裏が再建されます。そして震災から16年後の明治3(1870)年には本堂が再建されました。現在建っている庫裏と本堂がこれです。尚、文久3(1863)年に花高松の秀山という和尚さんによって観音堂両脇の龍図が寄進されました。この他、明治、大正の時代には、観音様の塗り替え修繕や観音堂の屋根を草葺から瓦に変えたりしました。
太平洋戦争の最中、日本は戦局悪化の一歩をたどり、金属などの物資の不足が深刻化します。ついに金属類回収令が出され、昭和16(1941)年、山門に吊ってあった梵鐘も供出されました。
戦後、昭和40年頃に行われた区画整理が始まると、現在、寺の正面を南北に通る道路の真ん中あたりにあった観音堂は、本堂の北に移動することとなりました。この時、壁が傷み虫食いやシロアリに侵された堂を守る為に、外壁にトタンが張られました。同時期、寺内にあった墓地を整理し、納骨堂が建設されています。
昭和53(1978)年に鐘楼を建設し、戦争で失われていた梵鐘を新調しました。平成元(1988)年には現住職、祐山和尚の晋山式に伴って、本堂の修理と参道の石畳など、寺内の整備が行われました。尚、この時から、それまで33年に一度しか御開帳していなかった観音さまを常に御開帳することとしました。
長勝寺は信じられないほど幾多の災難を受けてきましたが、その度に復興を遂げて今にその姿を現しています。歴史を辿って行くと、「ああ、ご先祖さま方も今とかわらぬ苦労をなさったか」と、いにしえの苦節を感じえずにはおれません。ご先祖さま方の遺徳に触れて頂けたら幸いです。