今週の絵手紙第48週
先日、あるお宅で水仙を球根ごと頂きました。車で持ち帰ったのですが、車内は良い香りでいっぱいです。
渋滞もやわらぐ水仙の力でした。
禅語に「花を売る人は一肩に春を(背)負う」
という語がありますが、まさにそんな心境を体感した出来事でした。
今週の絵手紙 第47週
ご無沙汰をしております今週の絵手紙シリーズ、お恥ずかしながら再開とさせていただきます。
今年初めての絵手紙はなんと風邪。
インフルエンザではないものの、みんな風邪をひいてしまいました。
修行道場では風邪などでダウンすると「延寿堂」というところに寝せてもらえます。
よく、風邪をひいてもロクに休ませてもらえないのでは?
という声を聞きます。普通の風邪くらいならまだしも、高熱が出るような場合は修行といえども特段の配慮を頂けます。
道場というところは日常すべてが修行の場です。
やる時も休む時も徹底的にやり、徹底的に休む。風邪をひいたときは徹底的に伏して病人になりきる事が修行でした。
いまは、、、中々そうもいきません。なにせ和尚は一人。
しかし、風邪を引けるくらいのスキができたのだろうと思います。
想えば去年から随分動き回っていましたから、
風邪がご褒美と思って、早く治るようにがんばります。
今週の絵手紙第46週
ある方から栗おこわを頂きました。
聞けば吉縁会に参加した親戚が、めでたく結婚が決まったので(おめでとうございます!)お礼かたがたお寺にいらしたのだそうです。
吉縁会大分支部が結成して1年が経ちましたが、最近嬉しいお知らせを沢山頂くようになりました。
ご好評をいただいている吉縁会、お近くに未婚の方がいらっしゃいましたら是非ご紹介ください。
吉縁会大分 新規登録会
9月24日 13時~17時 長勝寺
10月1日 13時~17時 長勝寺・極楽寺(大分市須賀1-11-36)
詳しくはこちら→吉縁会大分ホームページ
今週の絵手紙第41週
禅宗のお寺では収入と支出のように入るもの出るものの事を把住・放行と言っています。
わざわざ分かりにくい言葉を使うのは、収支に対する心意気が普通とちょっと違うからです。
それをよく表している禅語の一つに
「把住するときは瓦礫も光を放ち、放行するときは黄金も光を失う」
という語があります。(※読み方を分かりやすい現代調にかえています)
誰も見向きもしないゴミ同然の瓦礫に光輝くすばらしい黄金の価値を見出し、
いざ支出の時は執着無く、どんなに高価な黄金でさえも光を失った瓦礫のようにあっさり手放す。
という意味です。
価値がある、ない。 好き、嫌い。 損、得。 高、低。 綺麗、汚い。 収入、支出。 男、女。・・・
禅は、今ごみのように扱っているもの、あるいは価値を感じているものに、
本当にその見方で良いのか
と疑問を投げかけます。
そして、二つのこだわりが消え去った時、本来の姿、素晴らしい仏教的価値観がひらけます。
今週の絵手紙第40週
茶道の世界では、墨蹟にと共に床の間に花を活けて客人をもてなします。
最近茶事があるようで、日曜日の早朝、花活けの練習も兼ねて茶花探しに行っていたようです。
私は茶道に明るくありませんので詳しいことは判りませんが、
茶道には自己修養の面と相手をもてなす接待の面、文化の面、道具コレクションの面などなど、総合芸術のように様々な顔を見てとれます。
茶道はしなくても、抹茶を頂く機会は、お坊さんという立場上、数多くあります。
物にもよりますが、抹茶は意外に高くないんですよ。コーヒー豆よりは安いのではないでしょうか。
値段から入るとは、あまり上品な物言いではありませんね。すみません。
でも茶道と言うと固くても、抹茶を家庭で飲むだけならいつでも気軽にできるのではないでしょうか。
私は気が向いたときには、マグカップで抹茶を点てて、お参りで頂いたヤマザキの月餅片手に、椅子にて抹茶を頂きます。
意外でしょう。
これを良しとするか、悪しとするかはさて置き
まあ一服召し上がれ!
最近、空高く泳ぐ鯉のぼりを見ることが減りました。
住宅事情や少子化など、色々な原因があるのでしょうが、少しさみしいですね。
絵手紙の鯉のぼりは随分変わった形ですが、それもそのはず。
実は姪っ子(寺庭からすると孫)が保育園で作ってきたものを模写しました。
仏教も儀式だらけですが、仏教だけに限らず、鯉のぼりや節句の祝いなど、儀式が簡略されて減る時代です。
儀式というと、一見意味の無いような事をおっしゃるニヒリズムな方もおられます。
しかし、儀式を通してしか得る事の出来ない規律や、肌身に感じる人間味、智慧があるのではないでしょうか。
儀式は知らず知らずの内に、人の心を豊かに、そして深くはぐくむものです。
意味は判らずとも、型にしっかりと自分をはめる事によって、いにしえ先人の智慧を頂くのです。
あなたの周りにも消えていった儀式がありませんか?